2012年11月17日土曜日

CSRの定義を覆す

 CSRセミナーに参加して、CSRの大学の先生のレベルに失望したとTwitterでつぶやいたら、同意する意見やコメントをたくさんいた。みんな同じように感じている点でもあるのだろう。

 これは、大学の先生に研究分野としてCSRは比較優位性が低いということとともに、従来のCSRの定義が時代にそぐわなくなってきているという側面もある。

 私が提唱する新しいCSRの定義は、「CSRとは、企業が社会的問題(Social Issue)をビジネス化することで、企業自身と社会の持続可能性に貢献すること」

この定義が、これからの時代のCSRの新しい定義になるでしょう。

これは、あるべき論でもあるし、現在進行形の起こりつつ未来でもあるのだ。

以上の定義が意味することは、
  • 企業と社会は不可分の関係にあること
  • 社会が良くならなくては企業の未来もないこと
  • 社会を良くする役割、責任を企業が背負わされること
  • 活動の結果として、企業自身にプラスにもなり、社会にもプラスなるという二面性を持つこと
  • 持続可能性(サステナビリティ)とCSRは融合すること、
以上のことをを意味している。

2012年11月16日金曜日

2つのモノサシによる幸せ追求


今、公益資本主義の本を書き始めていて、その評価基準が重要ですね、という話があります。いわばモノサシです。

では、どういうモノサシをもつべきかということで、経済性のモノサシと社会性のモノサシという考え方を出しています。

わかりやすく対比すると以下のようになります。

         図表 経済性のモノサシと社会性のモノサシ

経済性のモノサシは自分がどれだけ儲かるのかを測ります。お金で換算できる、直接な効果を測定し、判断基準が単一でわかりやすいです。

これに対して、社会性のモノサシは、他人がどれだけ助かるかという視点で、利他的で、間接効果も換算するので、お金に換算しにくいですし、判断基準は複数あって、わかりにくいう面があります。

しかしながら、社会性のモノサシは、お金に換算にしくいからといって、無視していいことには全くなりません。

この2つのモノサシをもつことの意味は、自分が助かるとともに、周りの人も助かる。したがって、このモノサシを使うことで長続きする、みんなが幸せになる可能性が高まるということです。

 これまでの日本は、会社社会で経済性のモノサシを金科玉条のように振り回してきましたけど、やはり、社会性のモノサシがないと、自分もみんなも幸せにはなれないし、長続きしないということがはっきりしてきたように思います。皆様はどのようにお考えですか?

2012年11月15日木曜日

新しい資本主義よ、こんにちは②

世界一の時価総額50兆円
偉大な経営者は経済性だけでなく、社会性のモノサシも持ち合わせる

 アップルを創業したスティーブジョブスは一体、どこが偉大だったのか? 彼が、経済というモノサシだけでなく、社会性というモノサシをもっていた 点である。

 ある時、技術者がマックをテストしていた際に、激しく叱責した。駆動時間が長いことにクレームをいれたのだ。1人1人はたった数秒の起動時間に すぎないにしても、それが100万台になったら、どれだけの時間を世の中はムダにすることになるのか、とスティーブジョブスは技術者を叱り、改良を迫ったのだ。

 偉大な経営者は、経済のモノサシだけでなく、社会性のモノサシも持ち合わせている。自社が提供する製品サービスで単に儲けるかだけではなく、自社の製品がどのような影響を社会に与えるかを常に考えているのだ。

これが、スティーブジョブスが後世に名前を残す偉大な経営者になった本当の理由である。

新しい資本主義よ、こんにちは①

新しい資本主義よ、こんにちは①

 経済性のモノサシと社会性のモノサシの両方を使うことで、経済の本当の姿がみえてくる。お金で測れるものと測れないもの、見えにみえるものと見えに 見えないものの、利己と利他、自分と他人、善と悪、陰と陽、男と女、物事の両面をみることで初めてリアルな現実を捉えることができるのだ。

 戦後、日本は、経済性のモノサシ一辺倒で邁進してきた。お父さんは夜遅くまで残業して、子育てはお母さんに任せっきり。世界からはエコノミックアニマルというあだ名を頂戴し、世界から恐れられていたのだ。確かに、お父さんの給与はどんどんあ がっていったが、子供と遊ぶ時間も日曜日の数時間だけ。社会性のモノサシをもっていなかったのだ。

 ところが、その経済性のモノサシだけで家庭もうまくまわらな くなった。また、経済自体も経済性のモノサシだけではうまくまわらなくなり、ニッチもサッチもいなかくなって、完全に自信を失ってしまったのが今の日本の姿である。

 今、必要なことは、これまでの経済のモノサシだけで物事を捉えることをやめて、経済性のモノサシと社会性のモノサシの両面から物事をリアルに捉え直す ことである。
 意外と、両方のモノサシで物事をみていると、危機と思えたことがチャンスに変わったり、思わぬ打開策が思いつくことも珍しくない。

2012年11月13日火曜日

CSV経営をどう捉えるべきか?


 CSV(共有価値の創造)に関する論文を書こうとしていらっしゃる方がいらっしゃって、当社としても協力することにしました。我々もこの分野で新しいフレームワークを作りたいと考えていますから。

まず、Creating shared valueをハーバードビジネスレビューの訳者は「共通価値」と訳しているのですが、これは共有価値が正しいでしょう。共通価値なら英語でsharedを使わないでcommonを使ったはずですから。この最初の第一歩から、日本で共有価値は誤解されてしまっています。

そもそも、CSVが何故面白いのか? 注目されるのか?を考えてみたいと思います。

 もともとは企業にとって社会貢献というのが自社の活動の免罪符のように使われてきました。これに対して、ポーターはそれではダメだ、CSVは自社の本業にプラスにする、競争優位を獲得するためにCSR、社会貢献活動を位置づけ直すのだと、はっきりと強くメッセージを発した点です。この辺りは、第一人者のポーターだからこそ許されると言えなくもありません。

 では、具合的にどういう方法論、フレームワークかというと、これはポーターも含めて模索段階と言えるでしょう。


 そもそも、共有価値(経済的価値+社会的価値)をどのように評価、測定するかが明確になっているわけでもありません。最近、FSGが出した、Measuring social impactとうレポートが出ましたが、測定の方法をいろいろと比較はしているのですが、以前としてポーターがどうやって共通価値を測定するかの具体的な方法論は明確にはなっていません。

 もう一方、この共通価値を理解する上では、企業が外部性を内部化する必要性が急速に強まったというトレンドを頭に入れておく必要があると思います。外部性というのは言葉を言い換えると、利害関係者の社会的価値になります。この文脈から、サステナビリティ領域にも非常に関係が深くなります。

  これまで負のコストとして無視してきた外部性を、いかに宝の山にしていくかという点が企業に求められており、ここにソーシャルイノベーションが求められます

 ポーターの競争優位理論は、5フォース分析、バリューチェーンなどの道具立てによって支えられてきました。では、共通価値はどうかというと、一つはCollective Impactという道具がコンセプト的には出てきました。社会課題を解決するには様々なプレーヤー(企業、NPO/NGO、国、市民)が協力しなければいけませんね、というある意味で当たり前の考え方です。

今後、
どうやって、最終結果である共通価値を測定するのか?
どのような領域で共通価値を高めることが可能なのか?
共通価値を実現する、共通価値を高めるためにはどう管理すべきなのか?
等が研究されるでしょう。

2012年11月12日月曜日

公益資本主義の基準


  公益資本主義では3つの条件を想定している。①持続可能性、②公平性、③改良改善性である。

 1つの方向性は、これを具体的な評価基準(KPI)を想定し、公益資本主義の総合指数を作る方向である。

 そして、この指数の値で企業群を分割して、ROEROA、株価パフォーマンスを測定し、総合指数の値が高いほど、財務的数値と株価パフォーマンスが高いことを示すという方向である。この点が明確に示せると、投資家にとっても意味ある指標にすることができる。

 問題点は、具体的なKPIを設定していくと、業種性が強いものが多く、相対的な比較可能性をどこまで確保できるかという問題点がある。

 例えば、改良改善性のKPI1つに、売上高研究開発費を採用した場合、この値は業種、企業によって大きく異なる。バイオ、製薬メーカーは非常に高く、メーカーはそこそこ高く、小売業はほとんど0。これで、改良改善性は製薬メーカーが高く、小売業は低くなってしまう。

 公平性のKPI設定もまた難しいものである。何をもって公平かは国や文化、歴史的経緯などによって異なるもので、公平性は価値判断を伴うものなのである。従業員をレイオフし、コストカットに成功した場合、経営陣が高額報酬をとることは公平か、公平でないか? 日本では公平ではないという人が圧倒的に多いが、米国だとそれほどでもない。

 また、3つの基準をどう統合指数に変化するか、そのロジックも考える必要がある。それぞれ同じウェーとにすべきか? 加重を加えるべきか? 

 この統合指数は一体何を意味しているのだろうか? ROEとはどういう関係になっているのだろうか? 経済的価値の数値なのか? 社会的価値の値なのか? それらを統合した共通価値の指標として捉えることができるのかどうか?

2012年11月11日日曜日

公益資本主義の基準作り


暫定的に、公益資本主義の3つの基準が提案されている。
持続可能性、公平性、改良改善性の3つである。

指標化しようという方針ではあるが、方向は大きく2つの方向がある。

これらの3つの基準に、
(1) それぞれの評価基準を設定するか?
    OR
(2)これらの3つの基準はおいておき、この3つの満たす結果、企業ソーシャルキャピタルが高まるという考え方をとり、その企業ソーシャルキャピタルを用いたサステナブル指標を出すという形である。

私は後者の方がいいのではないかと考えている。

この3つの基準は産業ごとによっても、かなり違いが生じるからである。安全性にお金をかけるということが公益を満たすといっても、その必要性は産業によって大きく異なる。一辺倒に、安全性にお金をかけているという基準を用いてしまうと、その差にゆがみを生じさせることになる。

つまり、この基準を指標化しても、比較可能性があまり高くならない。

後者の選択肢をとると、企業ソーシャルキャピタルは財務諸表から導くことができるので、より比較可能性を高めることができるのだ。。

公益資本主義の普遍性?



果たして、公益とは普遍的なものだろうか? それとも、企業毎に、ステーホルダーが合意によって決めていくしかないものだろうか?

どういう水準を満たせば、その企業が公益を満たしているかという判断は、時代によって変わっていくだろう。

また、それぞれのコミュニティによって変わっていくだろう。
 公平性の概念も、国によって文化によって異なる。

公益とはステークホルダーの集合、つまりコミュニティのフォーカルポイントと言える。

この点が何故重要なのか?

公益資本主義のある基準を設けることができても、それがどう適合されるは時代によっても変わるし、個々の会社ごとに違うということを意味してる。あくまぜ暫定的な基準になるということだ。


公益資本主義の前提(2)



ジェームズブルナー博士がもう一つの面白い主張をしている。

社会や企業が成熟するほど、関係者の協力、プラスサムにするのは難しいという主張である。その理由は、吸い取れる既存価値の方が大きいから。

その実現のためにはプレーヤー同士の結託が有効な手段となる。

例えば、米国における経営陣と株主の結託。企業の資産から自社株買いによって株主に利益を与える一方で、その見返りに経営陣はストックオプションによって得をする。

日本の場合は、経営陣と株主の結託はあまり見られない。むしろ、従業員と経営陣の結託という形だろう。これによって、株主が損をする。

このような中で、日本で、投資家を長期に縛り付けるようにするのは拷問に近いと言えないこともない。

 公益資本主義が必要といっても、米国と日本では出発地点が違う。この点を踏まえた議論も必要なように思う。

公益資本主義の前提(1)



 公益資本主義を考えている際に、いくつか気づいたことがある。

 公益資本主義が必要であると主張する前提となる事実(データ)は必ずしも明確、明瞭なものではない。

 まず、用いられているデータは古いものか、ほとんど全てが米国からのデータであり、日本の最新データを用いたものはない。ジェームズブルナー博士がどっかからかとってきたものがベースになっている。それをもって、日本に公益資本主義が必要とされているというロジックを構築するのはやや無理があるように思えなくもない。

以下が用いられているデータとその要点
  1. 株式発行の推移 新規発行から自社株買いを引いた純増→マイナスになっている
  2. CEO報酬の推移→拡大している
  3. 国民税引収入総額に上位1%が占めるシェア→拡大している(つまり、格差が広がっている)
  4. 米国経済の法人利益に占める金融業の割合→拡大している
 これらのデータ、事実(らしきもの)を組み合わせることで、経済がゼロサムになっていることを示そうとしているようだ。
 
ゼロサム自体はコンセプチュアルな概念なので、現実がそのような状態に陥っていると証明するのが難しい。よって、上記のようなデータを組み合わせる示し方をしたのだろう。

 果たして、上記のデータを持ってきたとしても、日本で同じ傾向がみられるのかどうかはわからない。

 日本は米国とは違い、ファンドなどの金融株主の力は強くないし、市場でも限界的なプレーヤーでしかない。アクティビストの代表格であるスティール・パートナーズも日本の株式市場には全く愛想を尽かして、日本市場からは事実上撤退してしまった。

 米国の状況、ファンドの力が強い、そのため、ゼロサムに陥っている。プラスサムにするたために、公益資本主義が必要というロジックを組み立てるのはやや無理がある。この点を踏まえて、どう修正すべきなのかを考えてみたい。